いつのことだったかはもう忘れた。
ノールが、僕が大昔に買った、古くて大きな図鑑をひろげて、嬉しそうにこう言った。
「海の温度って、ほんとの季節より少し遅いんだって」
だって、と「ジェダに特別に教えてあげる」とでも言いたいような口ぶりだったことをよく覚えている。
「春だとすごく冷たくて、夏も涼しくて、秋にあったかくて、冬でもそんなに冷たくないんだって」
それは僕の本だ。だからそんなこと、知っているからいちいち報告しなくていい、と、言わなかったのは、少しだけその知識に思うところがあったからだ。
僕がノールの言葉に取り合わないのはよくあることだ。だからノールはまた図鑑に目を戻し、時に首をかしげ、時に頷きながら、実に楽しそうに本を読み始めた。
あの時のことを、なぜか今、思い出している。


〜水面(みなも)によせて〜




「わッ、つめたっ……」
真夜中の湖の温度に、僕を抱きかかえたノールの身体がこわばるのがわかる。
「おい、僕を落とすなよ」
「わかってるよ。ジェダは軽いから大丈夫」
「重さについて言及しているわけではない」
「う、うん?」
つまさき、くるぶし、次に一気にひざまで。そしてすうっと息を大きく吸ってから、腰のすぐ下まで、ノールの身体が水に浸る。
「ジェダ。手、おろしてみて」
促されて、そっと、ノールの首筋に絡めていた手を水面に差し伸べる。中指だけが辛うじて、水の感触を捕らえた。
「もうちょっと深くまで行かないとダメだね」
僕がなにも言わないうちから、ノールはさらに一歩、湖の奥まで進んだ。
​「入水自殺でもするつもりか?」
にゅうすい……?と珍妙な表情をしたが、自殺、という部分はさすがにわかったらしい。ノールは「ち、違うよ」と勢いよく首を振った。そこに腕を絡めている僕のことを何だと思っているのか。
「……っ……危ないだろう」
「ご、ごめん」
「一体何を考えて、夜の湖なんかに僕を連れて来たんだ」
この質問はさっきからなんども繰り返している。その度にノールは、えへへ、だの、秘密、だの、行けばわかるよ、だの言って、はぐらかしている。
「ん〜〜〜と……」
ノールは僕から目を逸らし、空を見上げる。まだ種明かしをしないつもりか、と思うものの、ノールの視線の先にある無数の星に、思わず目を奪われた。

シルクのような質感の、なめらかに黒い空に、数えることは到底不可能な数の星が瞬いている。
先人たちが、見えない線で繋いでは、何かの形に例えようと、試行錯誤してきた星々。


 ノールは星の寿命……つまり、今輝いている星の光は、数万年も前の光であることを知ったとき「すごく……」とつぶやいて少し黙った。
すごく素敵だね、すごく神秘的だね、すごく……とにかく、肯定的な意見を言うものだと思っていたから、ノールの発した言葉に驚いた記憶がある。
「虚しいね」
「虚しい?」
「うん。だって、ボクがいまこうして本で、星座を知って空を見るよね。その星座を作った人が見ていた星座は、今よりもっともっと眩しかったんだ。綺麗だったんだ。ボクが見てる星座の光は、それを考えた人が見ていたものの、何分の一……ううん、もっともっと小さなものでしかないんだ」
ぱたん、とノールは、星座の本を閉じた。
「本当のものじゃないのに、綺麗だなんて思えないな」
「なるほどな」
わからなくもない感覚だった。でも、ノールにしてはやや感傷的な口ぶりだと感じた。
「すこし考えを変えてみたらどうだ?」
「え?」
「たしかに星座を創った人間は、最も美しい状態の星を見ていたかもしれない。でも、その人間が息絶えたあと、輝き始めた星もあるだろう」
「あ……」
「その星の輝きは、彼らには決して見ることはできないものだ。そして、これから世界に届き、強く輝いて、生まれる星座もきっと、ある。違うか?」
「うん、うん、そうだよね、うん、そうだ、うん……うん!」
うん、と言うたびに首を縦に何度も振るから、こういう人形があるな、と、思わず笑ってしまった。
「みんな。自分が生きてる時に一番輝いてる星を、綺麗だって言っていいんだね。ボクにとって一番綺麗な星は……ボクが選ぶんだ」


それからノールは、毎晩空を見上げるようになった。どの星が一番いいかなあ、などと、まるで1つ貰えることになっているかのように悩みながら、人差し指を空に伸ばす。
「あれがいいかも」
「……どれだ」
「あそこ。ほら、ちょっと緑っぽく光ってる」
「わからん」
「あれだよ!」
「あんなに遠くを指さされたところで、わかるわけがないだろう」
「だから……ボクの指の先だよ?」
「わからん!」
そんな不毛な夜を何回過ごしただろう。
雨上がりのある夜、ノールが「ああっ!」と小さく叫んだ。
「ボク、いいこと思いついちゃった」
そう付け足して。


 かくして僕は、目的も知らされないまま、ノールに連れられて、夜の湖で星を見ている。
ノールは、まるで砂漠の旅人が星を羅針盤にするかのように、時折空を見上げながら、ゆっくりと湖の中を進む。
さほど深さはない湖だったと思うが、ノールは何かに熱中すると危険に気付けないタチだ。念のためにすこしきつめに、ノールの首を引き寄せた。
「寒い?」
いや。むしろ、ノールの身体はあたたかい。でも、そんなことは別に伝える必要はないと、僕は思う。
「もう少しだからね」
すん、と、鼻を小さくすすりながら言われた。寒いのはどうやら、ノールの方らしい。
「このへんでいいかなぁ」
「?」
「あのね。ジェダ。ボク、思いついたんだ。星を近くに持ってくる方法。もういっかい、水に触ってみて」
そっと指をおろした。今度は先ほどとは違って、手首のあたりまで水に浸すことができた。時折掠めるのは木の葉だろうか。そして、ノールの思惑に気付く。





「星を近くに持ってくると言うから幼稚だと思ったが……なるほど、これなら確かに近いな」
そう。大きな鏡のような湖には、空を引き下ろしてきたかのように星が映っている。湖面に手を沈めて、波紋が鎮まるのを待てば、黙り込んだ水に星が輝く。
「あの夜、水たまりに月が映ってるのを見て思いついたんだ。これならジェダに、ボクの星を教えてあげられる。それに、触らせてあげられる」
「お前にしては考えたな」
水に濡れた指のまま、ノールの頬に触れた。ノールの星かどうかは知らないが、星をかすめた指だ。その感触を、ノールに分けてやろうと思った。
僕に褒められたこと、星を間近にしたこと、どちらに喜んでいるのだろう。ノールはとても満足げに微笑んでいる。
「でもボク、もう、星に興味がなくなっちゃったかも」
「どうして」
手に入れてしまうと途端に美しく感じなくなる、そういう気持ちのことを言いたいのかと思ったが、ノールはその辺で拾った珍しい石から、先が毀れて使い物にならないナイフまで、自分で美しいと思ったものは捨てられない奴だ。だから、ノールの意図が汲めなかった。
「一番綺麗なのは……ボクの星は……」
ああ。
言われずともわかったのだが、言わせてやることにした。わざとまじまじと目を見つめて、唇が触れそうなほどに顔をよせた。ノールがまた、すん、と鼻をならす。今度は寒いんじゃない。僕の香りを嗅いでいる。
「お前の星は?」

『海の温度って、ほんとの季節より少し遅いんだって』
いつかのノールの声がなぜか、頭をよぎった。
本来の季節よりも遅れて、温度を変える海。それはまるで、僕の気持ちのようだ、などというのは、らしくない考えだろうか。
ノールが僕を見つめる。触れたそうに手を伸ばす。好きだと告げてくる。その熱はすぐには僕を変質させない。でも、季節が巡りゆく中で、ゆっくりと僕に流れ込む。僕はその侵蝕に逆らうことはしない。以前ならきっと、そんな変容は耐えがたいと眉をよせていただろうに。
「仕方ないな、本当に」
思わず小さくつぶやいた。責められたと思ったのか、ノールが噛み締めるように打ち明ける。
「ジェダが。ボクの、一番綺麗な星だよ」
知っている。だから、言い終わらないうちにそっと、唇を重ねた。

ノールと過ごす時間は、うんざりしそうになるほど長い。
永遠だなんて言葉は、ため息を呼ぶだけだから、使いたくない。
けだるい日々の出来事にいちいち『思い出』なんて名前をつけて、記憶しておくのは至極無駄なことだ。

それでも僕は、今夜のことは、すこしは覚えていてやってもいいと思った。




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百家さんが、挿絵のイラストを元にSSを書いて下さいました。
ありがとうございます!


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